昭和三十九年十一月二十一日 夜の御理解
徳と言うのはあの世まで持って行かれる
おかげを受けるという事、この世でおかげを受けて言うのでなくて、この世で徳をうけてという事になるとね、その徳というのが、あの世までも持って行かれるということ。
だからね、この世でうける徳と言うような徳とは、どういうような徳か。 徳というのは、おかげを伴わないかと言うと、この世で受ける徳には、やはり、おかげは勿論つくのですけれどもね、私、今日それをいろいろ思わせて頂いたんですけれども、もう、お徳の前には、どんなに力があっても、お金があっても、知恵があっても、神様には勝てんと言う事ですね。
その神様を頂いている者には、もう絶対、勝てんです。もう、今日は、朝から起きてくる、今日の、福岡の秋永先生やら政喜さんやら、それから、浅田さんやら、そして今日、私、善道寺にこん度、私、総代にならせて頂きましてから、総代会がございましてね、その、あちらに参りましてから、今日一日こと、まあ、兎に角その、神様には、勝てんなぁと言う事です。だから、どげん馬鹿にされて怒ってもいい、どげん踏みつけられとってもよかです。踏みつけとる方が負けて来るのです。
もう必ず、もうそりゃおどろいてしまいますたい。ですからもう、どうでも、その徳を受けなきゃいけないと言う事ですね。今日、朝のご祈念の後に、福島さんがご祈念をしておられる時に、ご心眼に頂いておられる事が、一升枡を二つ頂かれたそうですね。今、福島さん、貴方がたはね、その二つの受けもの、おかげだ、おかげだけぢゃないですたいね。もう、おかげと徳の枡です、いうなら、この世とあの世で頂ける受け物を、いまこそ頂きよる時だから、ちっとは修行が激しいでしょうがね、と言う事です。今はまた、本当に、いま、ここでそういう意味あいで修行なら、第一人者だろうとおもうですたいね。もう内外ともと思うような修行です、福島さんの場合、最近それが、その修行がどういう事の為かというと、あの世この世をかけての、いわゆる、一升枡とは、この世あの世という事でしょうね。そういう様な受け物が出かけておる時ですから、並み大抵の事ぢゃないと私は思うばってん、それが実に、本当に判れ、判ったら楽しい事だと言うことだから、ここを通りぬけただけぢゃいかん。この頃の御理解ぢゃないけど、難儀なところ通りぬけただけぢゃいけん。その難儀を信心で通りぬけて、はじめて徳にもなりゃ受け物にもなるわけなんです。その位にね、皆さんどうでも一つ、神様をもっともっと、こう、実感的に、今日私、お風呂頂いてからヒゲをあたってもらおうと思ってから、古賀先生にカミソリ持って入って来てもらった。こりゃ、こうしてお風呂に入って、お風呂に入っているこの実感がね、あの、神様と私共との関係が、こういうものではなからにゃいけんよ、と言って話ました。
古賀先生が、先生実はこういう事がございましたと言うて、今日ここで留守番さして頂いている間に、頂いておることなんですね。
もう、この頃、一月いっぺん位しか散髪に行かれないそうですね、けれども、こりゃ先生が立ってんしゃがんでん、そのご神意を伺ってから立つような気持ちになれと言われるから、こりゃ髪つみに何時行ったなら良いだろうかとおもうてから、今日ここで、ご結界に座りながら神様にお伺いさせて頂いたら、そしたら有り難いぢゃないすか、神様、はっきり字で教えて下さったち。それが先生その、私、見当がつかんのですけれど、七月二十二日と頂いたち。 七月は、もっと昔に、来年の七月と言うわけぢゃないだろうけれど、先生、どう言うような事でしょう。そして、それを頂きましたら、恐ろしくなってですね、神様が、向うたら、こんな事教えて下さると言うような事だけではないですね。もう、その神様がいちいち返事して下さるもんで、恐ろしくなったち。だから、それを聞いて思うんです、もう、古賀先生それよ、ち。私があんたに分かってもらいたいのはそれだ、ち。
神様が実感的に恐いからとか、うれしいとか、有り難いを言うても、その実感で頂いて行かなきゃいかんのだと言うて、私が、神様が恐くなかった時代の話をさせて頂いてね、それが、ちょいと待たんの、私は、顔に石鹸つけてから、騒動するから、もう、今日は私やりにくい、私もう、このまま上がろうち言うてから、上がってまいりました。これは、こげんあんたが散髪恐いなら、私が明日連れて行こう、ち、散髪にと言うて、言うた。それはね、明日の事だと、私が言うた、明日行けと言うことばい。
七月の二十三日、あんたの信心がね、神様がね、お伺いをすると、段々本当の事を教えてくださるようになる。例えば、教祖の神様でも、初めの間は、嘘ばっかり教えておられたんですね。神様が、信心が進んで行くに従って、本当な確実な事を教えられるようになったんです。
私、その事、ほんな事お伺いさせて頂いたら、十一月二十二日と頂いたんですもん。それじゃけん、十一月とは十と一をひっけて頂くもんですからね、これは、七月、見えるんです。古賀先生がまだ、頂きたらんとこは、こう言うとこを取っとらんとです。
はあー本当にやすか、ち、言うはずねと、私思いました。もう、たった頭つみに行くことでも、神様、しかも、はっきり字を書いて教えてくださった。いわゆる、神様が何か恐ろしくなったち、言う訳ですね。その、恐ろしくなったと言う事が、素晴らしい事ね。だからガタガタ震いながらでも、神様の教えて下さった事、おっしゃっ事は、実行して行かなければいけないよ、と。明日そんなら、師匠がついて行ってから、頭つみに連れて行ってあげようかと言うて、今夜なら、ヒゲは剃るまいと言うて、まあー言うて、申しましたことですね。そう言う、例えば、実感的な、そういう神様を頂いて行くと言う事。それにはね、やはり昨日から申しますように、先生が、最近頂きよる事ですね。
今朝からも、お届けがありましたのに、これはいつ頂いたんでしょうかね、あの安心市移住ということ。 昨日、今朝だったか、こう言うこと、やはり字で頂いとるです。安心とはね、安と言う字と心は信心の心を頂くとる。市は久留米市の市です。この、それにはね、安心市移住しに行くと言うところを頂いた。移住、うつっている、移住と言うことは、こうすり替えると言う意味なんですね。安心の世界に住み変えて行けれると言うこと。
信心とは、だから、どんなに軽蔑されておってもいいんですよ。安心市に、いわば移住しといたら、全然問題はないです。神様に勝てるものはないという事が、こちらに分かっとりますから、あーそれが、馬鹿にされても、軽蔑されても有り難いのです。今に見ておれと意地ばったもんでんもない。神様がちゃんと、その赤白をつけて下さるわけなんです。しかも、それで頂いとるのが、あの豊臣秀吉が、こりゃ安土城ですかね、それに、あの豊臣秀吉ということは、まあーいうならば、豊かな富、秀吉という事は、まあー、私のことじゃないだろうかと、そのー安土城と言うのは、安心の安と土と城ですから、椛目のことだろうと。いわゆる、私がここで頂いとる、いわば安心の城、城郭と言おうか、城の中にですたい、古賀先生がこうやって、こう安心市に、こうやって移住して行きよる。もう本当に椛目人となりと言うか、心までが椛目の方になりきって移って行きよる。
そう、神様が、例えば散髪に行く時間、時期まで教えて下さる、伺えば。それで私が、先生、あの風呂から上がる時、古賀先生、お伺いせなならんよ。風呂からはよ上がらせんなら、お伺いしてから上がらないけんよと言うてから、もう、私はうれしかうれしかですね。そういう風に私の信心が、こうやって移って行きよるです。本当にそうですから、には、なら福島さんが頂いておられるように、今修行中という時には、確かに、その修行中というただけではダメ、苦労というだけではダメ、それこそ、あの世この世かけてのおかげの受け物、徳の受け物を、今こそ頂いておる時ですから、有り難しと言う気持ちで、ここを信心で受けぬいていかなければならない。
そこに、例えば、安心市に移住して行くと言うようなおかげが、受けられるね。そこに、ここに至ってはじめてバカとアホウになりきると言う事がわかるですね。
なぜバカとアホウになれるかと言うたっちゃ、もう、兎に角、その神様までバカにしきらんと言う事。どげな者でも、私はそう言うようなおかげをいただいてほしい、と。皆さんに、思うと同じにですたい、神様をですたい、本当にもう少し身近に、それこそ、さわれば暖かみを感じるようなです、場合によっちゃ、恐い恐くなる、もう動かれん、神様にらんでござるという時は、神様、恐い時でしょうね。
神様が、もう目を細めて見とってくださる時には、もう、兎に角、有り難い嬉しい時でしょうね。神様の懐の中で、わがままが出けておる時なんです。それを、そういう実感がこれに伝わって来るような、言わば、信心をさして頂かにゃならんと言う事。
もう、椛目で私いつもこの実感、実感と言う事を申しますですね。実感的なという事は、そういうふうに甘い物は甘い、辛い物は辛いと実感出ける信心。お風呂の中に入って、あー極楽と実感する信心。とても、ほんに神様ちゃ恐れいってします、こげな事まで教えてくださる不思議な、恐ろしい神様だと、こう実感出けれるような神様をですね、いただいていかなければ、私はいけないと思うですね。 おかげ頂きました。